一茶の句作、松戸も支えた 働き学ぶ文化の広がり、市立博物館長が新著で紹介

 江戸時代の俳人、小林一茶。流山をしばしば訪れていたことは知られているが、実は、松戸にも同じくらい頻繁に訪れていた。一茶がこの地を訪れたのはなぜか。その背景は。松戸市立博物館の渡辺尚志館長(一橋大名誉教授)が「松戸の江戸時代を知る」シリーズの最新刊で、一茶と農村文化にスポットライトを当てた。

常盤平の子和清水に、小金牧周辺を題材に一茶が詠んだ「母馬か 番して呑ます 清水かな」の句碑が立つ=松戸市

 一茶(1763~1827 )は、流山のみりん醸造家、秋元三左衛門(双樹)と親交があり、流山市にある「一茶双樹記念館」はその交流を今に伝える。郷土史家・杉谷徳蔵氏の著書によると、1803~17年の15年間で、一茶が流山を訪れたのは128日。同期間に、松戸には144日滞在したという。今回、渡辺館長が松戸分を数え直したところ、15年間で204日、年平均13・6日にもなった。

 松戸で一茶と深く交流したのは、馬橋の大川立砂・斗囿親子だった。特に立砂は、油を商いながら、俳句の指導者としても広く知られ、一茶から「爺(じじ)」と慕われていた。「一茶のよき理解者で、庇護者だった」と渡辺館長。

JR馬橋駅から徒歩5分。旧東京ベイ信金馬橋支店前に大川立砂邸跡の標柱が立つ=松戸市

 この交流の深さから「一茶の馬橋奉公説」が生まれた。一茶は信濃から15歳で江戸に出てきたが、その後の10年間、どこで何をしていたのか、分かっていない。そのため、立砂のもとで奉公し、俳句を教わった、との説がある。渡辺館長は「2人の親交の深さから、ありそうなストーリー。ただ直接の資料がない。大川家も絶えており、文書も残っていない」と残念がる。

 一茶が松戸や流山を訪れたのは、ただ立砂らと交流するためだけではない。地域の愛好者に俳句を教えるためだった。「一茶の暮らしは江戸がベースだが、それだけでは生活できず、俳句の愛好者の多いこの地を訪れ、指導料を得ていた。一茶の暮らしを支えたのは、松戸や流山などの人たちだった」と指摘する。

渡辺尚志館長

 渡辺館長が著書で着目するのは、一茶を支えた松戸の文化の広がりだ。旧家に残る文書から、一茶が晩年、信濃に帰った後も、松戸の百姓たちが広く俳句に親しむ様子を紹介。さらにその背景にあった寺子屋教育も伝える。江戸時代には分かっているだけでも30近い寺子屋が松戸にあり、寺子屋の師匠が俳人だったケースもあった。百姓の子どもたちは仕事の合間に文字を学び、文化に触れていた。

 「江戸時代の百姓は、普段はつらい農作業に励むが、余暇はきちんと楽しんでいた。領主に対しても、年貢が重ければ声を上げた。働き、楽しみ、学び、戦う。松戸の百姓たちは、多面的な顔をもっていたことを知ってもらいたい」

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