読者投稿オリジナル童話
まちくたびれたビニールがさ
池田 あい(柏市 派遣社員・74歳)
台風が来て、外は大雨と強い風。外を歩く人はあまりいないが、たまに、ぬれながら傘をすぼめて風に向かって急ぎ足で行く人がいる。
駅の中は人であふれている。新幹線の一部が止まっていて動けない人もいた。トイレは長い行列。
「モシモシ、傘を忘れていませんか?」「ありがとうございます。私のではないのです」「そうですか、失礼しました」その傘はどこにでもあるビニール傘。洗面台の横の傘かけにかかっていた。しばらくしてまた、「傘を忘れていませんか?」「いえ、ちがいます」時間が少したつと、この会話がくりかえされた。しかし、傘を取りに戻ってくる人はいなかった。傘はぽつんとぶら下がって待っている。
「お母さんどうしたんだろう。私の事忘れてしまったのかなー。戻って来ないかなー」
半日くらいすると、台風も早足で北上し、雨はやんだり、小雨になっていた。まだトイレに忘れられた傘はさみしくぶら下がっていた。時々、「忘れてませんか」と声をかける人がいて、ビニール傘ははずかしくなってきた。「どうしよう。私は一人では動けないしなー」トイレはすいたり、たくさんの人が長くならんだりしている。傘の忘れ物を心配する人が声をかけあって通り過ぎていく。ずいぶんたって終電が近くなったころにおばあさんが入ってきた。
「あったあった、私の傘。ごめんね、忘れたのを思い出して、駅の中をウロウロ迷ってしまって、やっとこのトイレにたどりついたの」そのおばあさんは、あまり電車に乗ることがなくて、大きな東京駅でストップしている新幹線のことや、今日中に行き先には着けないと聞いたり、自分で相手に様子を連絡したりしていた。今度は傘を忘れたのを思い出したが、どこだったかわからなくなり、駅員さんに聞いてみたり、乗ってきた電車を降りて、すぐのトイレだったと言っても、丁寧に説明されても、ハテハテ今自分がどこにいるのかわからない。あちこちのトイレをのぞきこんで探して回った。さて、自宅に帰るしかなくなった時、「あ、このタイルの模様覚えてる。ここかな⁉」
もう遅いので人もまばらなトイレ。「私ここよ! お母さ~ん」「あったあった私の傘。孫が貼り付けてくれた、『え』の所の私の名前。ごめんごめん、やっと会えた。いっしょに帰ろうね。まだ少し降ってるから頼みますよ」おばあさんは大事に傘を抱き、元来た電車のホームへと歩いて行った。
童話作家緒島英二さんより
相手を思う声かけの勇気と、それに伴う優しさが心に染みてきます。