かとう ようこ (柏市 主婦・60歳)

はい、わたしは、奥深い山で小さな宿屋をいとなんでおります。ここにあるのは、少しばかりの山の幸、きれいな水と空気。そんなところがよいと、訪れるお客さまがいらっしゃいます。
そうそう、この宿の自慢といえば、一本の桜の木。
その昔、わたしのおじいさんとおばあさんが移り住んだころ、この山には、杉やくぬぎの木ばかりだったそうです。冬になると、このあたりは、雪にとじこめられます。長い間、空は低く、冷たい風の音ばかりですので、それはそれは春が待ち遠しかったそうです。
そこで、おばあさんは、自分たちの楽しみのために桜の枝をもらいうけて、家の前を流れる川のそばに植えました。花が咲く日を心待ちにして。
ところが、とつぜん連れてこられた桜の枝は、
ここはどこ、どこなの?
ぼくはひとりぼっち
さびしいよう、もとのところにかえして
ねぇ、だれかそばにいてよ
おねがいだから……
毎日毎日、小さなかたを落として、泣いてばかり。その泣き声は、風にのって、静かに近くの山々までひびいていきました。
でも、まわりの木々や土、虫たちには、どうすることもできません。うまいなぐさめの言葉も見つかりませんでした。
一年たち。二年たち。この桜が、花を咲かせることはありませんでした。
ある年の秋のことです。大雨がふり続きました。地面をたたき、木々をゆらしながら、雨は川となって山をかけおりていきます。そして大きな岩をも押し流し始めたのです。
大きな岩はゴロゴロところがり、おじいさんとおばあさんの家の近くまでせまってきました。
そして、不思議なことに、あの桜の木の根元でぴたりととまりました。
もうだいじょうぶ
泣かないで
そばにいるよ
翌年の春、桜は数輪の花を咲かせました。
その翌年も、翌年も。
今では、桜は岩をだきかかえるように枝を伸ばしています。
ずっといっしょだね
そんなほほえましい姿を見た人々は、このあたりを岩桜村(いわさくらむら)、いわさ村と呼ぶようになったそうです。
今年もまた、村に春がやってきます。
童話作家 緒島英二さんより
素朴な語り口で、物語の世界へと誘い込まれていきます。桜の木が、岩を抱きかかえたまま花を咲かせ続ける中、様々な人や物の存在の大切さを、みんなで共有していくのですね。