平和への思い語り継ぐ 長崎で胎内被爆、我孫子の的山さん

 我孫子市の元小学校教諭、的山ケイ子さん(77)はこの夏も、原爆と戦争の悲惨さ、平和の尊さを後世に伝える語り部として、忙しい日々を過ごしている。長崎に原爆が投下された78年前のあの日、お母さんのおなかの中で被爆した。胎内被爆だから原爆そのものの記憶はない。「けれども、一番若い被爆者として、語り継ぐ使命がある」。的山さんはそう思って証言活動を続けている。

 8月11日の朝9時。的山さんの姿は我孫子市生涯学習センター「アビスタ」にあった。市主催の「平和祈念の折り鶴展」(8月25日まで)の準備で、市民らが折った千羽鶴を1階中央通路に飾る。的山さんはウクライナの国旗を表す青と黄色の千羽鶴をつくった。3カ月かかった。
 翌12日には、アビスタで開催された平和祈念式典に出席。戦没者や原爆の犠牲者に花を手向け、「核兵器のない世界」の実現と平和を祈った。
 本来なら前日までの3日間、市が被爆地に派遣した中学生の代表らと長崎市を訪れ、平和祈念式典にも参列するはずだった。台風6号の接近で縮小開催となったため、長崎訪問の中止を決定。中学生は10日から1泊で広島市を訪れた。
 的山さんは63歳で教師をやめ、広島と長崎の被爆者で組織する「我孫子市原爆被害者の会」の運営にかかわるようになった。高齢化で会員が減少。最年少の的山さんが最後の会長となって3年前、活動にピリオドを打ったはず、だった。
 的山さんは立ち止まらなかった。一人で被爆体験の証言活動を始めたのだ。

「おなかの中にいたから助かった」
 米国が長崎に原爆を投下した1945年8月9日、的山さんの母トシ子さん(当時23)は爆心地から2・4㌔の自宅にいた。爆風で飛んできたガラスが刺さったり、髪の毛が一時抜けたりしたが、助かった。造船会社勤務の父常男さん(当時29)も職場が離れていたため無事だった。
 敗戦後の9月24日、トシ子さんは実家がある熊本で女の子を出産。夫婦は初めて授かった小さな命をいつくしんだが、生後1週間ぐらいで首から上が紫色に腫れ上がったという。
 「髪の毛が抜け、皮膚は破けて出血。赤チンしか塗るものがなく、お化けのようだったそうです」
 その後、弟と妹が生まれ、一家5人は50年前、我孫子市に転居。両親はがんで亡くなり、きょうだい3人もがんの手術を受けた。被爆者であることを強く意識させられ、死の恐怖を感じながら生きてきた。
 昨年、長崎の原爆被害を調査した書籍『「焼き場に立つ少年」は何処へ』を読み直し、わかったことが二つあるという。「私の病名が血小板減少症であること。母のおなかの中で栄養をもらえていたので助かったこと。77年間の時をへてわかった真実です」
 一人でも証言活動を続ける理由を、的山さんが明かした。「生まれてすぐに死んでも不思議ではない私が、こうして生きている。被爆者としての使命を果たすために生き残らされていると思っているのです」

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